頤 和 園 頤和園は北京の西北部の郊外にあり、市内中心部の天安門から約20キロ離れています。頤和園は万寿山と昆明湖からなっており、面積は290ヘクタールで、その広さは約故宮の4倍です。昆明湖は総面積の4分の3をしめ、残りの4分の1は万寿山や緑地と建築物とで占められております。1998年11月30日にユネスコから認定を受け、世界文化遺産となりました。 頤和園は1151年遼、金時代に皇帝の保養地として造られ、金山と金山泊と呼ばれていました。元の時代になってから瓮山と瓮山泊と名づけられました。明代初期に西湖と改名され、そして園内に園静寺が建てられました。1750年に清の乾隆帝は母親の誕生日を祝うために、瓮山を万寿山と改め、瓮山泊を昆明湖と名づけ、公園は清漪園と呼ぶようにしました。清漪園は1860年に北京に侵入してきた英仏連合軍によってひどく破壊されました。1888年に清の西太后は清漪園を修築し、その名を頤和園と改名しました。しかし、1900年、8国連合軍の手によって再び破壊されました。現在の頤和園は1902年修復当時の状態とほぼ同じです。 頤和園は中国の南北の造園芸術を一つにまとめ、南の造園芸術の繊細さと北の造園規模の雄大さをうまくマッチさせた中国造園芸術の傑作とも言えます。そのほかに頤和園は儒教、仏教と道教の文化を入れて、儒、仏、道教の思想を結びつけて作った皇族庭園で、天下を支配するという帝政思想を表したものと言われております。 先の頤和園の概況は以上ですが、次は頤和園のほうがご案内いたします。 これは東宮門です。東宮門は頤和園の東向きの正門です。真正面の頤和園の3文字は光緒皇帝の親筆です。頤は精神を休養させ、和は気分を安らかにまた穏やかにするという意味を含んでいます。 東宮門から入って、みとりつところで、見学コースをご案内いたします。まず仁寿殿で、次は徳和園、後は楽寿堂、次は長廊、山の上に排雲殿、知恵海、仏香閣があります。もうすぐ行って、石舫で、如意門から出ます。 その後は仁寿殿です。仁寿殿は皇帝が大臣たちを召集し、政務を執り行う正殿です。同治帝、光緒帝の時に、西太后はここで垂廉聴政をも行ったところです。乾隆5年に建てられ、もともと勤政殿と呼ばれていましたが、1890年に立て直されたもので、その時から仁寿殿を改名されました。仁寿とは孔子の論語から引用されたもので、仁政を施すものは長生きできると言う意味です。 仁寿殿の前においてある怪獣は狻猊と呼ばれる想像上の動物で、四不像とも呼ばれています。 その後は徳和園です。徳和2つの文字は左伝から引用されたものです。徳とは道徳の意味で、和は気持ちが穏やかになることです。徳和園の大戯楼は清の時代の3つの大舞台の1つで、その中の一番大きいものです。この舞台は西太后が観劇した場所で、高さは21メートル、幅は17メートルあります。 次は楽寿堂です。楽寿という2つの文字は孔子の論語を引用したもので、楽寿堂とは智者と仁者の堂の意味です。楽寿堂は西太后が日常生活をするところでしたが、乾隆年間に乾隆帝の母親がここで生活したことがあります。光緒年間は西太后がここで住んでいたそうです。清漪園の建立時には、2階建ての建物でしたが、再建された時からは現在のように平屋式になりました。 殿内の西の内室は西太后の寝室です。西の外室は西太后が書類に目を通し、指示を与えたりして、決裁をする所で、政務を行うでもありました。東の内室は西太后が着替えをしたところです。東の外室は西太后が朝食を取ったり、お茶を飲んだりしたのに使われていました。楽寿堂の中に西太后の生前に使われていた品物や珍しい宝物がたくさん陳列されています。まずは電灯です。こらは1903年にドイツから輸入された中国最初の電灯の一つです。北京で最初に電灯を使った所は故宮です。次は青い花模様つきの磁器大皿があります。この大皿は果物を載せる皿で、これらの果物は食べるためではなく、もっぱら見ることと香りを嗅ぐためにおかれていました。また、9つの桃の模様がついた金メッキの香炉があります。桃は中国においては、長寿を意味します。 楽寿堂の前に青芝岫が置かれています。乾隆帝が北京の南北部にある房山区良郷という所から、石をここへ運んできて、楽寿堂の照壁として使いました。照壁とは正面玄関の目隠し用の壁のことです。この石は霊芝の形をした青色の石なので、青芝岫と名づけられました。言い伝えによりますと、明の万暦時代、官吏米万鐘という人は変わった石がとても好きで、この石に目をつけ、手に入れようとして、大金を払い100人の労働力、馬車一台と四十頭の馬を使って運搬を始めました。しかし、7日間かかって山から出て、その後の5日間で良郷という所まで運んだのですが、余りに金がかかりすぎるので、途中で置き放しにしてしまいました。その石は道楽石と呼ばれていました。100年過ぎてから、清の時代の乾隆帝が南へ巡行した帰りに、この石を見つけ、大変気に入り、都まで運ばせたということです。また、銅製の鹿、鶴、花瓶が対になって置かれています。これは鹿、鶴、花瓶という漢字の発音をあてはめたものです。 すぐ行って、これは長廊です。長廊は東の入り口である邀月門から西の石丈亭までの長さが728メートル、柱の間の数は273もあり、中国における一番長い廊下です。廊下の桁、檁、梁の上に、彩色画が大小あわせて1、4万枚飾られており、同じものは1枚もありません。西湖の景色を表す絵だけで、546枚もあります。山水画のほかに、有名な古典小説の物語、例えば、西遊記、三国演義、紅楼夢、封神演義など描かれています。これなどは中国の遠古時代の3皇5帝から最後の封建王朝までの5000年にわたる代表的な人物、物語を表しています。そのため、画廊とも呼ばれており、1990年に長廊は世界記録大全に世界最大の画廊として登録されました。 廊下を通って、万寿山を見えます。山の上に排雲殿、仏香閣、知恵海があります。排雲殿を中心とする排雲殿建築群は誕生祝いを執り行う所です。排雲殿は大報恩延寿寺の大雄宝殿の遺跡の上に建てられたもので、西太后の誕生を祝い、官吏たちから祝賀をうけた所です。 仏香閣、衆香界と知恵海は、乾隆帝時代の万寿山前山の大報恩延寿寺の1部分でした。仏香閣は頤和園の中に代表的な建築物で、乾隆23年(1758年)に建てられ、光緒低17年(1891年)に78万両の銀を使って、再建されたものです。3階建ての仏香閣は木造の8角形で、屋根は4重で、瑠璃瓦が使われています。どの方向から眺めても同じように見える仏香閣は高さ41メートルで、鉄梨木の柱で支えられ、建物の勢いが4方に広がっている構造となっています。中には5メートル以上の高さの金メッキの仏像があります。 智恵とは如来菩薩の「智恵は海のごとく、仏法は底無し」という意味で、智恵海は万寿山では一番高い建物で、乾隆帝時代に建てられたものです。瑠璃瓦と石材で造った2階建ての無梁柱です。無梁は無量と同じ発音で、音を取って仏様の智恵は尽きることはないという意味も含めています。殿壁には1008本の小さな仏像があります。 最後は清晏舫です。中国東漢時代、有名な文学者であり、科学者であった張衡という人の「夫水能以載舟、亦能以覆舟」と名句があります。人民を水に喩え、朝廷は船に例えたものです。つまり、「人民は良い皇帝を擁護することもでき、また、同じ人民が悪い朝廷を覆すこともできる」という意味であります。清の乾隆帝はこの言葉をよく知っており、この石で船を作ることによって、自分を励ますと同時に、清の支配はこの石舫のような磐石になって、覆すことができないを宣言したのです。乾隆時代のこの石舫は完全な中国式の建物でしたが、光緒帝時代になってから、西洋式に改築されました。 ここまで、頤和園の紹介は以上です。 |